コメント返信2
前回のエントリに対して、そのつもりは無かったのですが、30以上のコメントがまた来てしまいましたので、その労力に敬意を表し、コメント返信をしようと思う。
その前に、前回のエントリについて説明不足から誤解を招いた事、深く反省し、補足という名の言い訳をさせていただきたい。
前回の内容は大きく2つに分けられる。
「面白くない」と結論づけた冒頭部分
そして「それをどのように楽しんでいるか」を書いた本文
そして、この違いはどこから生まれたかと問われれば、”眼が違う”ことに起因する。
冒頭部分は”批評眼”から見た内容である。
作品のクオリティを品定めし、客観的に優劣を付け、評価する視点から見た場合、「けものフレンズ2」はお世辞にも褒められた作品では無い。
脚本はガバいし、演出も下手だし、展開も雑だし、画的にも前作に毛が生えた程度だ。
いくら私がアプリからのファンであったとしてもこの結論に変わりはない。
そして、他者と共有出来る観点はこの”批評眼”からの観点であることが殆どである。
しかし、本文部分はまた別の視点、”考察眼”からの内容である。
作品の全体から枝葉末節に至るまでを精査し、読み解く上で必要な知識を付け、想像力を最大限発揮することで、作品を理解し、楽しもうとする観点が、”考察眼”である。
そこから見た場合、「けものフレンズ2」は結構楽しめたりする。
擬人化された動物が動くだけで、そこに何らかの示唆的な物が発生するのは否定できない事実だ。それを考察することこそ、私がアプリ版からずっとけものフレンズを追うことが出来た原動力である。「永遠性の否定」説も、この観点の産物だ。
しかし、これを他者と共有するのは難しい。なので私は先に人払いをした。理解できなかったとしても読み手の自己責任にするためである。
真反対の2つの結論、しかし、どちらも、少なくとも私にとっては”真実”である。
そして、私は後者の視点からけものフレンズを楽しみ続けることにした。
前回のエントリはつまるところそれだけの話です。
それだけ、ご理解頂きたい。
では、どうぞ。
アニオタwikiのキチレコ回の記事にキチ貝についての解説が載っててようやくあの奇行の意味を理解できた pic.twitter.com/TfkWt2NybB
— むまりす (@mm_11ce) March 5, 2019
恋、というワードがありましたが、確かにそうです。
私は「けものフレンズ」のIPの持つ可能性に深く惹かれています、個人的にその潜在性は「火の鳥」に比肩すると思っています。
しかし、今の所その可能性を真に発揮した作品はまだありません。たつき監督の前作であっても、その片鱗すら見せませんでした。
仕方がないので、それを見るまではのんびり付き合っていくつもりです。
漫画版、アプリ版、アニメ視聴済み前提の作品です。
以上、32件。
投稿順にご紹介しました。
「けものフレンズ2」は面白いか、面白くないか。
前回のブログについて、様々な反響があった。自分としては毎週のようにやっている考察班の活動を少しばかり拡張した程度だったのだが、けものフレンズのファン以外にも興味を持っていただけたのはとても嬉しく思う。
そして、(非公式ながら)6話での感想(とネガキャン)の中心であった「かばんとサーバルの旅を終わらせるなんて酷い」という主張に対しての説得が出来たということに、一ファンとして静かな満足感を覚えている。
きっとそれは、現在けものフレンズのファンではない人にとっても、大事な事だろうから。
そして、感想は次のフェーズへと移行した。
仮にけもフレ2が「アプリ版をぶち壊して作られた1」を踏襲し1をぶち壊す目的で作られたのだとしても、単純につまんねーんだからどうしようもない
— ネガソニックひらがな四文字ウォーヘッド (@HiraganaForce) February 23, 2019
だからこの話は終わりなんだよロック
誰かがほんの少し優しければ……
書いてあることは面白いし理解出来るけど単純に質がね
— 高菜(明太) (@7_t30) February 24, 2019
量もそんなに無い。
「けものフレンズ2」が擁する脚本上の不整合や達成感の希薄さ等、物語としての良さ・面白さはさておき、アニメ2を、アプリ・アニメ・アニメ2を俯瞰としての位置付けから語ったこの記事からは深い納得を得られた
— 圭色.glTF (@pso_ryuk) February 24, 2019
さて置かれてしまった。
それはそれとして単純にお話として面白くないからダメ
— 糸魚(いとよ) (@110YO_river) February 24, 2019
結構”単純に”という言葉を使う人が多かった気がします。
以上、要約すると、
「内容がつまらない、面白くない」
となるだろう。
エンターテインメント作品に対する論評としては最も厳しい言葉の一つである。
では、アプリ版からずっと見ている私はどうなのか。
それが一番、皆さんの興味を満たすものの一つだろう。
私の批評眼からは以下の通りである。
「うん、つまらないし、面白くないね」
そもそも、本当に面白かったらこんなブログなど書かなくてもツイッターやニコニコ動画やアニメ系まとめサイトやらが我先に取り上げるはずである。私の出る幕など一切ない。
しかし今、私はこうやってキーボードを打鍵しているのである。これは「面白くない」と結論づけて十分な状況だろう。木村監督、ますもと氏は大いに反省すべきだ。
さあ、これで一般の方々に対しては満足の行く回答を出せたと思う。
これ以上ここに残っても仕方がない。
ブラウザバックして帰りましょう。
(おわりったらおわり)
帰れ―!
……そろそろ良いかな。
ここまで残った人へ。地獄へようこそ。
ここから先は私の批評眼ではなく”考察眼”から見える光景を通して、
「一見面白くない『けものフレンズ2』を、ファンたちは如何に楽しんでいるのか」
を解説していきたいと思う。
なぜ先に人払いをしたのか。
ここから先の内容は読者の皆さんを「納得」させるために書いているわけではない、それでもそれを「知りたい」という人のみが、此処から先を読むべきだと考えているからだ。
長文に対する覚悟は宜しいだろうか。
それでは、具体的な回に対する実例を上げて、ファンたちの狂気を見ていこう。
2話『ぱんだとぱんだ』
1:尻尾の黒いパンダ
たどりついたある林で、ジャイアントパンダと、レッサーパンダというよく似た名前のフレンズに出会ったサーバルたち。しかし、名前は似ててもなんだか全然タイプが違う。そして、サーバルたちはレッサーパンダの案内で先に進むことにしたが、なかなか目的地に辿り着かない。そんな中、サーバルたちは林であるものを発見する。
初っ端ラスボスである。
この話を何も考えずに観た時の空疎さは相当なものであり、頭を抱えるファンたちが後を絶たなかった。ストーリー展開の粗は確かに多い、それは紛れもない事実だ。
(今は敢えてここには触れない、後で触れるから安心して欲しい)
しかし、この回にはストーリーより重大な問題を抱えていた。
これが作中でのジャイアントパンダの後ろ姿である。
実は、動物好きならば、一瞬で「何かがおかしい」と気づく部分があるのだ。
ヒントを出そう。
これでもうお分かりだろう。
なんと、「けものフレンズ2」のパンダの尻尾は、実際の動物と違って「黒」いのである。
これがいわゆる「パンダの尻尾騒動」と呼ばれる事件である。(今付けた)
界隈は戦慄した。
こんな基本的な所を間違えていて、今後大丈夫なのだろうか。
アンチはこれみよがしに「2は動物に対するリスペクトが足りない」という主張を繰り返した。
しかし、とある存在がこれに一応の解決を与えた。
我ら栄光の「けものフレンズ考察班」である。
過剰なほどの動物に対する知識と愛を持ち、どんな小ネタも見逃さない。その読みはマリアナ海溝よりも深い。
真の考察班は背景ばかり見ている。
彼らはこの「異常」とも言える事件に対して、どのように立ち向かったのか。
まず、「これはもしかしたら”意図的に”黒くしているのではないか」と考えた。
根拠が無いわけではない。
公式は今まで「パンダの尻尾が白いこと」をしっかりとデザインに入れていたのである。考察班のバイブル的存在、「けものフレンズBD付きオフィシャルガイドブック」の3巻に、それはしっかりと示されている。
持っていない考察班はモグリだぜ。
今まで正しかったデザインを、いきなり黒くするのはどうにも不自然である。そこにはなにか「黒くしなければならない理由」もしくは「黒くすることで伝えたい意図」があるのではないか。
考察班はリサーチを続けた。そしてその一人が、とうとう一匹のパンダにたどり着いた。
トントン (ジャイアントパンダ)https://t.co/hhTFXgTkzz
— bool (@bool_LO) January 23, 2019
生涯を上野動物園で過ごしたジャイアントパンダである(中略)通常、ジャイアントパンダの尻尾は白であるが、トントンは珍しく黒い毛が尻尾の先に混じっていた#けものフレンズ2 は動物園にいそうなフレンズが中心っぽいしコレが元ネタかな?
パンダの名前は『トントン』
1986年に恩寵上野動物園で、日本国内で繁殖した初のジャイアントパンダとして生まれ、2000年に死亡するまで一生を上野動物園の顔として生き続けた。
このトントンは、世界でも類を見ない、黒い毛が尻尾の先に混じっているジャイアントパンダだったのである。
尻尾の黒いパンダは、実在したのだ。
となれば、「けものフレンズ2」に登場したジャイアントパンダは、「トントン」ないし、トントンのように動物園の主役であったジャイアントパンダがモデルであると考えることができる。
2:レッサーパンダの劣等感
その上で2話を視聴してみよう。注目すべきポイントはレッサーパンダのセリフである。
『ジャイアントパンダちゃんと違って……』
『私って、ジャイアントパンダちゃんみたいに可愛くないし……』
と、ジャイアントパンダと自分を比べて、自分を卑下する発言が見受けられる。
そう、作中のレッサーパンダはジャイアントパンダに対して、相当な劣等感を抱いているのである。
では、その劣等感の原因は何だろうか。
「人の動物に対する認識はフレンズに反映される」という半分メタい設定がある。
キンシコウが孫悟空の格好をしているのは顕著な一例だ。「キンシコウは孫悟空のモデルになった」という言説は人口に膾炙している。彼女の緊箍呪と如意棒はそれが反映された物だろう。(しかしながら、その発端となった日本モンキーセンターの小寺重考氏は後にそれを「勘違いであった」と訂正しているのではあるのだが)
そして、この設定からフレンズの内面もまた、人の認識を反映していると類推出来る。
そう考えた場合、一つの答えにたどり着く。
「彼女の劣等感の原因は、他ならぬ私達にある」という答えに。
3:パンダとパンダ、それとヒト。
動物園の2種類のパンダ、同じ名前を冠しながらも、私達の認識は天と地ほども違う。
パンダの野生、炸裂です。
1972年、日中国交正常化を記念して中国から「カンカン」と「ランラン」が贈られた時から現在に至るまで、私達のジャイアントパンダに対する認識はほぼ変わっていない。
「動物園の主役、動物園の人気者」
1974年に歴代最大の入場者数、約764万人を達成したのは、「客寄せパンダ」のお陰と言って差し支え無いだろう。
2008年に「リンリン」が死亡しパンダのいなくなった上野動物園の入場者数は、1949年から維持していた300万人を初めて下回った。
現金なものである。
その後、2011年には「リーリー」と「シンシン」が中国からの”リース”という形で来園、入場者数は470万人へと爆上がりした。
2017年には「シャンシャン」が誕生
当時の盛り上がりは今更説明するまでも無いだろう。
パンダブーム再来
熱狂は未だ続いており、昨年は6年ぶり、400万人が来園した。
やっぱりみんな現金。
そんな躍進と対照的なのがレッサーパンダである。
想像よりデカかった……
読者諸兄の中に、現在、上野動物園はレッサーパンダを展示していないことをご存知の方はどれほどいらっしゃるだろうか。
2016年に西園の施設改修工事が始まって以來、展示の見通しが立っていないのだ。
しかし、殆どの人は入れ替わるように誕生したジャイアントパンダに夢中で、全く気づかなかった。ぶっちゃけ、私もこの記事を書いた時に初めて気づいたくらいである。
早く再会したいですね。
私達はついつい、”珍獣”に惹かれてしまう。
どうしても”珍しい動物”ばかりに気を取られてしまう。
レッサーパンダも珍獣ではあるものの、ジャイアントパンダと比べるとどうしても”ありふれた動物”として受け止められやすい。素通りしてしまう人も少なくないだろう。
レッサーパンダの劣等感は、そんな私達の心理的バイアスの反映かもしれない、と考えるのは行き過ぎた想像だろうか。
しかし、動物園は全ての動物に対して等しく真摯に向き合い、愛情を持って飼育している。
そう、本来、動物たちは平等な存在なのだ。
私達も、動物たちの間に本質的な価値の差異はないということを再確認しなければならないかもしれない。
本当に動物が好きならば、ブームや珍しさに惑わされる事無く、どこの動物園にもいるありふれた存在に、地味な存在に、ちゃんと向き合うべきではないだろうか。
と、作品を通じて勝手に考察班たちは感じた、多分。
少なくとも私は感じた。
感じたということにしておいて下さい。
4:二人の解放、二人の友情
「ううん、お礼を言うのは私の方。だって、私のこと、守ろうとしてくれたし。いつも寝てばっかりの私と、一緒に遊んでくれるし~!こちらこそありがとう~!」
ずっと劣等感を感じていた相手からの感謝の言葉。
レッサーパンダにとって、これ以上の慰めの言葉は無いのではあるまいか。
二人はひしと抱き合う。
その時、我々は2話の本質に気づくのだ。
人がいなくなったことにより、二人は人間の価値基準から開放されたこと、そして人の姿を得たことにより、二人は対等な友人となったことを。
人類が絶滅した設定と、フレンズという概念を上手く利用した、皮肉めきながらも美しいストーリー。
これをエモいと言わずして何というべきか。
と、考察班にかかればこんなものである。
無論これは勝手にストーリーを補完し解釈した冷奴である。信じるか信じないかはアナタ次第。
考察班の主食。
なお、BDのPR動画では、尻尾は白に修正されていた。
なんでやねん!
3話『うみのけもの』
1:ジャパリパークのボッタクリタクシー
海のそばまでやってきたサーバルたち。目的地はすぐそばのはずなのだが、探してみてもどこにもない。そこでたまたま近くにいたフレンズ、バンドウイルカとカリフォルニアアシカたちに尋ねてみることに。するとイルカたちは目的地を知っていたが、サーバルたちだけではいけないという。そこでサーバルたちはイルカたちに案内してもらうことに。
東南アジアの観光タクシーのようなバンドウイルカとカリフォルニアアシカの”ご褒美”要求が話題になった3話。
1期で確立された「やさしい世界」の崩壊とされ、相当な物議を醸した回である。
しかし、彼女たちの行動にはどうにも不自然さが残る。何らかの法則に従って”ご褒美”を要求しているように私には思えたのだ。
それを解明すれば、あのぼったくりタクシーのようなご褒美要求の理由も説明できるかもしれない。
私は図書館に駆け込んだ。
イルカに関する書籍を片っ端から借り、熟読した。
「迷ったらその動物を徹底的にリサーチする」
考察班の鉄則である。
そして、一冊の本に辿り着いた。
水族館の動物に対するトレーニングを、一般人に対しても分かりやすく解説した本である。
イラストを多用し、ストーリー仕立てで進んでいく内容はとても楽しく感動的、読了後はイルカショーを見る目が変わるはずだ。
そして、この本の内容こそ、3話の謎を紐解く鍵であった。
2:3話に見る「オペラント条件づけ」
さて、ここで一つ、読者に質問しよう。
「水族館のイルカはご褒美(魚)を食べたいからジャンプをする」これは正しいか。
否、実情はそう単純ではない。
「オペラント条件づけ」という言葉を聞いたことはあるだろうか。
「自発的に行った行動の中で、満足感をもたらすものは、繰り返されるようになる」
という、心理学者”スキナー”が提唱した理論である。
イルカのトレーニングも、この法則に則って行われている。
①イルカを動かすきっかけは別に存在している(行動のきっかけとなる刺激)
②そして、イルカがそのきっかけを受けて、トレーナーの意図通りの行動を起こす(行動)
③そうしたら、イルカにその行動を増やすための快の刺激を与える、これが「ご褒美を与える」に当たる(行動を増やす刺激)
この①②③の繰り返しによって、イルカはトレーナーの指示どおりに動くようになるのである。
https://static.pepy.jp/wp-content/uploads/2016/11/13021933/shutterstock_431608501-e1484102821514.jpg
つまり(言葉遊びのような言い回しで非常に申し訳ないのだが)
イルカがジャンプをする理由は、行動前の「魚が欲しいから」というきっかけではなく、行動後の「魚が貰えた」という、過去の結果なのである。
ギャンブル依存症に例えてみれば分かりやすいかもしれない。
ギャンブル依存症患者は「大金が手に入るからギャンブルをする」のではない。
「ギャンブルをしてお金が稼げた」という過去の結果に行動を強化されてギャンブルをするのである。
カジノ側が必ずしもギャンブラーに利益を与えないことは、少し考えれば誰でも分かることだが、それでも破産するまでギャンブルを辞められない人が後を絶たないのはこういう理由なのである。
つまり、オペラント条件づけによる行動において、「事前に結果を確約すること」は不必要……というより不可能なのである。 私達の常識的な「契約関係」のルーティン――「結果を予め約束して」から「行動を起こす」は、この場合において通用しない。
魚を持っていない状態でも、指示を出せばイルカはジャンプをするし、コインが一枚も入っていない状態でも、スロット台を前にすればギャンブラーは回さずにはいられないのだ。
(勿論、結果が全くなくなればそれは「負の強化」となり、行動を消滅させることになってしまうので、カジノ側もいきなり負け続けにするのではなく、勝ちと負けを交互に与えることによって「間欠強化」を行い、ギャンブル依存症にさせていたりする)
それを踏まえて3話を見てみると、イルカもアシカも「結果が見込めない状況でありながらも行動を起こしている」事が分かる。「ご褒美が貰えないと分かっていても、行動を起こしている」のである。これは完全に「条件づけされた行動」だ。
そして、オペラント条件づけされた行動はルーティン上、「結果を予め約束すること」が出来ないのである。
故に、「ご褒美」を「行動」の後から要求しなければならなかったのだ。
これで、彼女たちの「ご褒美要求」の理屈は説明が付いた。彼女たちは悪意をもって、それをしている訳ではなかったのだ。
かくして、優しい世界は守られた。某弁護士もにっこりである。
3:感動は、はるかな時を超え……届く。
しかし、まだ私は満足していなかった。
これだけではエモくないのだ。
最終的に、イルカたちはキュルルたちを「ご褒美」なしで岸まで送り返してくれた。
「お前のルールガバガバじゃねぇか」「ゴネ得だ」ニコ動のコメントではそんな言葉が流れた。
しかし、ここにも語られていない理由があるのではないか。
「トレーニングという仕事」には、以下のような内容が記されている
「行動を強化する刺激」というのは、かならずしも、「ジャパリコロネ」のような”ご褒美”である必要はない。イヌや人の場合は「親や飼い主から褒められる、撫でられる」事も「行動を強化する刺激」である。
しかし、「イルカはイヌのように褒められることを理解できないので、ご褒美を使っているだけ(志村 2017:46)」なのである。
それを踏まえて3話の後半を見てみよう。
二人の芸を見て、キュルルたちは大きな拍手を送る。
それを見たイルカたちの内面に変化が起きる。
「懐かしい」過去。
動物の頃に浴びた拍手喝采。
動物の頃には理解できなかった。
しかし、人の姿を得た今、彼女たちはそれを理解したのだ。
「あたたかい」その意味を。「言葉では言い表せない」気持ちを。
”その気持ち”はきっと、二人にとって”ジャパリまん”よりも遥かに強い「行動を増やす刺激」になったのだろう。
ならば、もう”ご褒美”は必要ない。この気持ちこそ、”最高のご褒美”だから。
ここまで話せば十分だろう。
けものフレンズ2の3話とは……
私達が水族館のショーで感じた感動の拍手の意味が、時を超えてイルカたちにしっかり伝わった瞬間
を描いた作品なのだ。
よし、エモいぞ!すごくエモいぞ!
けものフレンズ第三話はクッソエモい説#けものフレンズ#けものフレンズ2 #けものフレンズ考察班 pic.twitter.com/G7kKiQbOUE
— イロニアート (@irony_art) February 9, 2019
と、勝手に確信に至った私は、これらの妄想を大急ぎでスライドに纏めTwitterに投下した。(新説は学術論文と同じように早いもの勝ちなのである)
このように、作品の「語られていない部分」を研究し、推察し、それを共有することで作品を楽しむという、ある意味病的な楽しみ方をしているのが、我々「けものフレンズ考察班」なのである。
こうして今日も、冷奴は造られ続ける。
「うめ……うめ……」「おわかりもいいぞ!」
知り続けること、想像しつづけること。
さて、如何だっただろうか。
今、読者の皆様方には複雑な感情が渦巻いていると思う。
「まさかここまで深い作品だったのか」から
「いや、流石にこれは無理があるやろ」まで
様々な意見が寄せられることは容易に想像出来る。
そして、最も張り付けられる煽り画像は
これであろうことも、また想像に難くない。
しかし。私はそれら一切に遠慮しない。
そんなものに遠慮していたら、考察班はやってられない。
公式の事情や監督の手腕や脚本家のオツムなど知ったことか。
私は、私達は「君をもっと知りたい」だけなのだ。
フレンズたちが何を考え、何を思っているのかを知りたいだけなのだ。
そのために、舐めるように本編を観て、動物に関する知識を収集し、想像力を最大限発揮させるのだ。
それは、実際の動物と接する時に少し似ている。
行動を緻密に観察し、知識を集め、物言わぬ彼らの心を想像する。
そうして初めて、私達は動物たちと心を通わせることが出来るのだろう。
私がこの記事を通して伝えたいことは唯一つ。
「知り続けることで、想像しつづけることで、見えてくる世界がある」ということである。
アニメであろうと、現実であろうと、そこに違いはない。
私達は今「けものフレンズ2」に試されているような気がする。
自らのイメージや考えに反した存在を「は?」の一言で拒絶するのか。
それとも、「なぜなのか、どうしてか」と、調べ、考え続けるのか。
二者に優劣を付ける気はない。
しかし、見えてくる景色には天と地ほどの差が生まれる、決して埋まらない差が。
その差こそ、「楽しめるか、楽しめないか」の差なのだろう。
とくに説明の無いものに対して「これは変だ!」と言うのではなく、「なぜなんだろう?」と理由を自分なりに考えていて感心しました。今後、いろんな物語や作品をより楽しんでいけるんじゃないかなあと思います。
— キクチミロ (@kona_milo) February 21, 2019
最後はいつもどおり、アプリ版からの引用で締めよう。
ジャパリパークに入園する者は、必ずこの問いに答える必要があるとされる言葉だ。
キャッチコピーでもあったこの言葉は、今、別の意味合いを含め、私達を問いかけているように感じる。
『あなたは、けものはお好きですか?』
とはいえ、ますもとたくや氏はこんな本書きながら制作していたと思うとなんとも言えない気持ちにはなるが。それはまた別の話。
コメント返信
前回のエントリに対して、様々な立場からたくさんの感想を頂いたので、その全てをここで表示したいと思う。
こんなバズりは一生に一度な気がする。
なお、今回私は「非ユーザーからのコメントも可能」「表示は承認制」という設定にした。折角なので、そのスタンスについても説明をさせて頂きたいと思う。
私はコメントに対して2つの側面があると思っている。
1つ目は「執筆者に対しての意見や感想」という側面
2つ目は「内容に対しての賛否の増幅」という側面である。
1つ目はツイートに対するリプライ、2つ目はヤフコメとかまとめブログのコメント欄を想像していただければ十分である。
そして、わたしは1つ目の側面のみを重視している。2つ目は空気や同調圧力を作り出し、個々人の判断を歪める恐れがあるからだ。そんなものを信頼する気にはなれない。
なので、わたしはこのブログに投じられた全てのコメントについて、一つ一つを個別に取り上げ、画像キャプションという形で返信を行うことにした。
これが、貴重な意見を蔑ろにすることなく、その負の側面を滅却するための最善の手段だと思う。
なお、この返信についての再返信は基本的に受け付けていない。多分私が消耗するから。
それではどうぞ。
以上、多分35件。
以降のコメントには返信致しません。悪しからず。
「けものフレンズ2」は間違いなく「けものフレンズ」だということ。
アニメ「けものフレンズ2」
その5話、6話はけものフレンズのファンから相当な物議を醸した。
「かばん」が「サーバルと何らかの理由で別れ、今はコノハ博士とミミちゃん助手と共に、研究室でサンドスターの研究をしている事。
サーバルはかばんの事をほとんど忘れてしまっているということ。
一期ファンにはそうやすやすとは受け入れられない内容。当然、私のタイムラインは阿鼻叫喚の嵐であった。
しかしながら、私はこの展開に既視感があった。
それは間違いなく前作でも行われていた事。
殆どの人は気づかなかっただけで、確かに前作でもこれに準ずる内容があったのだ。
それを知るには、けものフレンズの”真の原点”である、スマホゲームアプリ「けものフレンズ」まで遡る必要がある。
アプリ「けものフレンズ」
アプリ「けものフレンズ」(以下”アプリ版”)2015年3月16日にサービスを開始したこのゲームの擁する、350人を超えるフレンズと非常に重厚なストーリーに魅了された人は少なくなく、今でも根強いファンが多く存在する。
なお、UIは劣悪そのものであった。
てれれてっててってって、てれてれれれれてってって(タイトルBGM)
そんなアプリ版けものフレンズは、主人公がパークガイド、ミライさんによって休園中のジャパリパークに招待される所から始まる。
ミライさんの話によると、パークは今”セルリアン”と呼ばれる謎の生物に支配されてしまっているのだという。
主人公の目的は、フレンズを仲間にし、パークを旅しながらセルリアンを退治し、セルリアンからパークを奪還する事。
サーバル、カラカル、トキ、ルル、シロサイ、ギンギツネ、仲間を増やしながら主人公の旅は続く。
しかし、度々サーバルそっくりのセルリアン「セーバル」が姿を表し、各地のボスセルリアンを強化して、行く手を阻む。
しかし、セーバルはセルリアンの女王に操られており、本心はサーバルとトモダチになりたいと思っていたのだ、二人は何度も邂逅を重ねる中で友情を育んでいく。
ようやく女王の本拠地にたどり着いた一行、しかし、セーバルは自らが運んできた輝きを殆んど女王に奪われ、今にも消滅しかけていた。自分を消滅させることをサーバルに望むセーバル。
その光景を目にして、サーバルは叫ぶ。
「セーバルは……セーバルは……私の"トモダチ"だよ!」
そして、奇跡が起こった。
セーバルの中に残っていた僅かな輝きが、サーバルの思いに反応して新たな「輝き」を生み出したのだ。
フレンズとなったセーバルは、大切な”ともだち”と共に、女王を倒す!
そしてジャパリパークには平和が訪れた、主人公はいつしか”園長”と呼ばれるようになり、パークは再開に向けて順調に動き出し、カコ博士も近々復帰するようだ……
第一部・完
と、軽く解説したが、この感動は実際にストーリーを追った者にしか味わえないだろう。
今からでも遅くないので、有志の投稿したアプリストーリー動画を一巡してみることをおすすめする。
また、テレビ東京の動画配信サービス”あにてれ”では、アプリストーリーを再構成したフラッシュアニメ「ようこそジャパリパーク」が好評配信中である。アプリ版のオリジナルキャストの声付きでテンポ良く進むストーリーはとても愉快だ。まだまだストーリーは序盤の中頃ではあるのだが、興味を持ってもらう入り口としては最高の作品である。(ステマ)
アニメ一期に勝るとも劣らない感動があなたを待っているはずだ。
アニメ「けものフレンズ」ショック
お守りと友情を武器に、セルリアンと劣悪UIを破った園長たち、しかしその日々も終わりを告げる。
そう、サービス終了である。
実はアプリ版は2015年時点ですでに収益が芳しくなく、いつサービス終了してもおかしくない状況だったのだ。
2016年3月16日には完全無料化を発表、ここから先の一年間は完全にスタッフたちの”けものフレンズ”に対する愛だけで運営されていたのだ。
アプリ版のスタッフにはここで深く御礼申し上げたい。
楽しいゲームを、ありがとうございました。
そしてそれと入れ替わる形で新たなメディア展開が発表される。
そう、アニメ版「けものフレンズ」である。
アプリを失ったファンたちは心から喜んだ。
しかし、同時に一抹の不安もあった。
まず声優陣の総入れ替えである。
アプリ版で野中藍さんだった「サーバル」は、”尾崎由香”さんに
一緒に旅をしてくれたガイドさんの名前は無く、中の人である”内田彩”さんは「かばん」という謎のキャラクターの声優を担当している。
『けものフレンズ』私はゲームの案内役、パークガイドのミライさんを演じていたのですが…アニメのサイトを覗くと…
— 内田彩 (@aya_uchida) October 26, 2016
・かばん cv内田彩
かばん…って誰?!
謎のシルエットになってる…
ゲームをプレイしてくれている方は同じくそう思ったのでは?笑
どんなお話になるか楽しみですね♪ pic.twitter.com/XbnUwXl6Ih
誰もが思った。「誰だオマエ」
これは大丈夫なのか。アプリ版プレイヤーたちは思った。
そして同時に発表されたあらすじも不安を掻き立てた。
この世界のどこかにつくられた超巨大総合動物園「ジャパリパーク」。
そこでは神秘の物質「サンドスター」の力で、動物たちが次々とヒトの姿をした「アニマルガール」へと変身――
訪れた人々と賑やかに楽しむようになりました。
しかし、時は流れ……
ある日、パークに困った様子の迷子の姿が。
帰路を目指すための旅路が始まるかと思いきや、アニマルガールたちも加わって、大冒険になっちゃった!?
”そして”、時は流れ……。ではない。
逆説の接続詞の代表格”しかし”である。
「何かあったに違いない」
そしてその予感は現実に変わる。
パークは崩壊していた。
あれだけ心血を注ぎ、再開にこぎつけたパークは完全に崩壊していた。
あの頃共に旅したフレンズたちは、性格も中の人も(ただ一人を除いて)変化しており、完全に別の存在である事は明らかだった。
野中藍はめちゃくちゃな推理をふっかけるアミメキリンになっていた。
後半では、ガイドのミライさんの映像が登場するものの、その内容は、
”セルリアンの大量発生によってパークが崩壊し、職員は全員退去することになった”
と、散々なものである。
アニメを単体で楽しんだ人は、この作品の虜になった。
しかし、その裏でアプリ版プレイヤーは困惑した。
無理もない。これまで積み重ねてきた物が、無残に破壊されてしまったのだ。
私はアニメで「けものフレンズ」のファンを辞めてしまった人を何人か知っている。
それには様々な理由があるだろうが、『公式作品によって「パークは崩壊する」という運命が約束されてしまった。それはどう足掻いてもひっくり返すことは出来ない。その事実を受け入れることが出来ない』という事が、大きなウェイトを占めていたはずだ。
9月25日ばかりが取り沙汰される本作だが、それ以前に事件は起こっていたのである。
「コンセプトデザイン展」ショック
アプリ版プレイヤーに対する仕打ちはまだ続く。
8月24日から9月11日にかけて池袋パルコで開催された「けものフレンズ 吉崎観音 コンセプトデザイン展」での展示はまた、アプリプレイヤーにとどめを刺した。
筆者は東京で十分な情報を記録しきれなかったので、わざわざ北海道まで行きました。
写真撮影が禁止されているエリアの展示であったので、現在それを見る事は出来ないのだが、言葉で形容するとこんな感じである。
「セーバルはサンドスター火山の中でアンチセルリウムとなって眠っている」
つまり、アプリストーリーの後、セーバルは何らかの理由でサーバルと今生の別れを告げたという事である。
これに涙が出ないアプリ版プレイヤーはいないだろう。「セーサー」はアプリ版屈指のCPだったのだから。
また、アニメ版のガイドブックには、2015年時点でジャパリパークが崩壊することを決めていたと考えられる資料が複数存在している。
インタビューからの恣意的な引用で殴り合え。
そして「けものフレンズ2」で繰り返されるショック
さて、ここまでお読み頂いた読者諸兄は、何か既視感をおぼえるのではないだろうか。
前作とは性格等が違うフレンズたち
前作主人公とフレンズの離別
これは「けものフレンズ2」で現在行われている事と相似しているのだ。
声優こそ一緒なものの、今作のサーバルは見た目からして前作とは違う存在だ(それぞれのキービジュアルのサーバルの胸元を見比べて頂きたい、2サーバルにはフリルが付いている)、前作でセルリアンに食べられたアードウルフは見事に復活している。
アニメ一期から、所謂”世代交代”が行われた後だと考えられるだろう。
便利な設定である。
そして「かばん」は「サーバル」と離別し、研究所でサンドスターとセルリウムの研究をしている。キュルルと同行しているサーバルに自分の知っているサーバルの面影を見ることはあったが、積極的にサーバルと関わろうとはしなかった。
二人の間に何があったのかは定かではないが、そこには「サーバルとセーバル」の間にあったような、どうしようも無い別れが存在していると考えるにやぶさかではない
「けものフレンズ2」は一期「けものフレンズ」と全くの別物のように見えるが、そこで行われている事は全く同一なのだ。
「前作の”フレンズ”の喪失」
けものフレンズは新作を出す度に、前作の関係性をほぼ完全に破壊する。
そして、その屍の上に新たな物語を描くのだ。
アニメ一期であっても、2であっても。
「けものフレンズ」の一貫したテーマ
この一見”前作の否定”とも言える行為は、多くの視聴者に怒りや悲しみと不条理しか残さないだろう、それは火を見るより明らかだ。
「そんなシステムクソ喰らえ」大体の読者はこう思っているはずだ。私もそう思う。
しかし、この一点を失った瞬間「けものフレンズ」は「けものフレンズ」としての資格を失ってしまうだろう。
ざっくり言えば「永遠性の否定」
それこそが、けものフレンズのテーマの一つだからである。
それは、アプリ版のラスボス「女王」のセリフから読み取ることが出来る。
”すべての 輝きは やがて 消える。
失い どれほど 焦がれようと
本来 戻ることは 決してない”
”しかし 我々 セルリアンは
保存し 再現する 永遠に”
”究極のセルハーモニー により
進化を極めた セルリアンであれば
失われた 輝きすらも 完全に 再現できよう”
女王は過去と現在の”輝き”を全てその身に宿し、それを永遠に再現する世界を望んだ。
楽しい思い出が永遠に続く世界
大切な友達といつまでも一緒にいられる世界
失われた何かと再び会える世界
とても理想的な世界である。
しかし、アプリ版プレイヤーたちはそれを拒んだ。
なぜならそこには、「パークが開園し、セーバルと一緒に生きる」未来が無いから。
これから続いていく無限の可能性を秘めた未来が存在しないから。
結果、プレイヤーは「パークが崩壊する」未来を、「サーバルとセーバルが離別した」未来を目の当たりにすることになった。
そして「かばんとサーバルが出会う」未来を得た。
無論、それも失われることが約束されている
「永続する現在」ではなく、「未来」を選んだ代償として、それは確定しているのだ。
「けものフレンズ」それは、いのち。
この「お約束」はあまりに残酷だ、前作に思い入れがあればあるほど、残酷さは増していく。
特に、メタ的な意味でアニメ一期は「失われた輝き」である。その現実に耐えられない人はアニメ一期を「保存と再現を永遠に繰り返す」ことでしか癒されない。それはつまるところ、「セルリアンに屈する」ということに等しいのだけれども。
(そう考えると、2の展開を癒やすために1期を繰り返し見てしまうファンの行為も、公式の術中に完全に嵌っている気がしてくる)
この後別れます(諸説あり)
そして、それを乗り越えた先にも絶望は続く。
今後、作品として描かれた内容は全て、”いつの日か失われる”ということだからだ。
現実からの逃避だった「やさしい世界」は、実は恐ろしく不条理な世界なのだ。
その「刹那性」に、今後も耐えられるファンはどれほどいるのだろうか。
だが、少し考えてみれば、これって、「現実の人と動物の関係」と一緒じゃない?と気づくだろう。
動物の命はヒトのそれとは比べ物にならないほど短いことがほとんどだ。
昨日まで生きていた存在が、今日は冷たくなって動かなくなっている。そんな事が毎日のように繰り返されている。
アニメ6話が放送された後
2月17日には那須どうぶつ王国の事故でワタボウシタマリンが死亡した。
18日には八景島シーパラダイスでジンベエザメが、井の頭文化公園のツシマヤマネコ「ノリ」が死亡した
20日には上野動物園で、ニシゴリラの「ナナ」が死亡した。
このように(ここまで連日なのは珍しいが)動物園でも度々動物が死亡している。
足繁く動物園に通ったけものフレンズのファンたちは、恐らく一度は「前来た時にはいた動物が居なくなっている」という経験をしたと思う。
「命あるものはいつか死ぬ」その理は、”動物”というテーマを内包する上では逃げられない課題だ。
今までの動物を主題としたキャラクターコンテンツは、この課題から逃げてきたと思う。作中でキャラクターが死ぬことは殆ど無い、死んだとしても、非常にフィクショナルな死であり、私達はそれを間接的に味わうだけである。
しかし、「けものフレンズ」はその作品全体を使って”プレイヤーや視聴者”に問いかけてくる。動物と関わる上で避けては通れない問題を突きつけてくる。
「失うことを含めて愛せるか」と。
過去と未来
他にも色々と書きたいことはあるが、そろそろここで筆を置かせて貰おうと思う。読者の心労は並々ならぬものであるだろうし、私もこれを書き上げるまでに3日掛かっている。パトラッシュ……もう疲れたよ……
私の言説を「公式に肩入れし過ぎている」と思う人も少なくないだろう。
無論これらは公式の情報を元に推察した”考察”ないし”冷奴”でしかない。
信じるか信じないかはアナタ次第である。
しかし、これが冷奴であったとしても(邪推すれば公式は本当にたつき監督の前作を破壊するためにこんな演出をしたのだとしても)、私は確かに5,6話に「けものフレンズ」という作品のポテンシャルを見た気がする。それは誰かの作家性に依らない純然たる作品コンセプトとしてのポテンシャルである。
しかし、それらもこれまで積み上げてきた人たちがいなければ、知ることは出来なかった。コンセプトだけでは作品にはならない。
故に、ここで改めて謝意を伝えたいと思う。
吉崎観音先生、フライ先生、たつき監督、春日森監督、木村監督、村上大樹さん
もちろんこっちも見てます。めっさ好き。
フライさんもキャラデザで頑張ってるし、俺も頑張らないと!
KFP、NEXON、ヤオヨロズ、トマソン、KADOKAWA、ブシロード、GOODROID、SEGA、テレ東、ネルケプランニング等のグループや企業
内田さんを始めとする声優さん
誰よりも5、6話で心労を受けたであろう人。ご自愛下さい。
秋山さん、オーイシおにいさん、みゆはん等の音楽関係者
ジャパリビートは隠れた名曲
そして、動物園、水族館、動物関連施設の方々
毎日のようにコラボグッズが完売している。
その他、けものフレンズに関わっている、関わっていた全ての方々へ
「けものフレンズ」を繋いでくれて、ありがとうございました。
(木村監督と春日森監督はまだまだ頑張って下さい)
そして、未だ見ぬ未来の誰かが作る「けものフレンズ」を楽しみに待とうと思う。
それは永遠と引き換えに得られる、貴重な物だから。
2がダメ?大丈夫。3がもう既にある。
最後は、アプリ版の冒頭部分の抜粋で締めたいたいと思う。
結局明かされなかったこの言葉の真意も、今ならばどことなく理解できる気がする。
あなたは忘れてしまうでしょう
ともに過ごした日々と私のことを……
私は忘れない。
あなたの声、温もり、笑顔……その優しく純粋な心
どれほどの時が経っても……
あなたが全てを忘れてしまっても……
私は決して忘れない
本当に、ありがとう
いつかまた、きっと私たちは出会えるから……
今は、さよなら……
それはそれとして、2話は一体何だったんだ……